映画は未来のチカラになる

徒然映画記録。映画を観て感じたこと。

風と共に去りぬ、の配信停止を受けて今一度考えてみる

 

2020年6月、こんな記事が発表された

www.cnn.co.jp

 

在宅勤務などの影響により、動画の配信サービスは競争が激化しているが、

そんななか、#BlackLivesMatter に端を発するアメリカ国内のProtestsを受け、

アメリカのHBO Maxが「風と共に去りぬ」を配信停止したという。

映画好きをうたっているわたしだが、今までにこの超長編映画は目にしたことがなく、休みを利用して鑑賞してみた。

この作品の何が問題なのか、私なりに分析してみたい。

 

作品の背景

この作品の舞台は、南北戦争前後のアメリカ南部・ジョージア州

 ※2020年6月14日、ジョージア州アトランタで黒人男性が白人警察官によって射殺された。

主人公の家は、南部では典型的な、何人もの黒人使用人を雇う富裕層だった。

畑では綿花が栽培され、黒人たちが収穫を行っている。

黒人女優として生きる厳しさ

 

ここで、キーパーソンとなる2人の黒人女性を紹介する。

・マミー

いわゆる「黒人女性」のイメージを具現化したような見た目、言動。

恰幅が良く、メイド頭として主人公を含むオハラ家の子供たちの面倒を見てきた。

スカーレットに対してはもちろん、当時なら「畏怖」の対象であった白人男性のバトラーにすら、厳しいことを言ってのける肝の座った女性だ。

 

演じたハティ・マクダニエルは、黒人女性として初めて、アカデミー賞助演女優賞を受賞するが、スピーチはごくごく短いものだった。


Hattie McDaniel winning Best Supporting Actress

 

彼女はシンガーとしてキャリアをスタートさせ、黒人女性として初めてラジオで歌を披露した、素晴らしいキャリアの持ち主だ。しかしながら、この賞を得てからも、彼女に与えられる役は「マミー」=黒人メイドばかりであったという。

つまり、この時代の黒人俳優には、俳優とはいえ、役の選択肢が限られていたわけだ。

さらに、彼女は300を超える映画に出演したにもかかわらず、クレジット表記がなされたのはたった83作品だけだったという。

また、『風と共に去りぬ』の初演は1939年12月15日(金)にジョージア州アトランタで行われたが、当時のアメリカは、一種の人種隔離政策ともいえる「ジム・クロウ法」のもとにあり、Hattieは主要キャストの一人でありながら、この公開が行われた劇場からは出席を拒否されている。

彼女がアカデミー賞をとったことは、アメリカの黒人たちに希望を与えたことは確かだが、一方で「黒人が演じられるのは奴隷の役のみ」という、黒人俳優のステレオタイプを受け入れた側面もあり、必ずしもポジティブな受け取られ方はしていなかった。

また、たとえ黒人が出演する映画であったとしても、ポスターに顔が載らなかったり、授賞式に出席することを断られることも多々あった。

実際、Hattieが受賞してから50年後、ウーピー・ゴールドバーグがオスカーを受賞するまで、黒人女性がアカデミー賞を受賞することはなかった。

 

・プリシー

虚言癖があり、すぐ得意になるが、いざというときまるで役に立たない

ー実際、メアリーのお産の際は「私は何人も取り上げてきた」と威勢よく言ったくせに実はウソ。「先生を呼んできて」と頼まれても、「死にそうな人がいっぱいいて怖い」と、残念ながらまったく役に立たない。

実にかわいそうなキャラクターだが、演じた人はもっとかわいそうだった。

いかにも「まぬけ」に見える甲高い声と行動は、黒人=何もできないというステレオタイプを植え付けてしまったように感じる。実際、プリシーを演じた女性はその後風評被害に苦しんだという。出演したことで、本来称賛されてもおかしくない黒人たちの間でも、「よくもあんなキャラクターを受け入れた」という、落胆の声が多く聞かれたのだ。

 

二人とも、映画に出演したことで、存在感を示した一方、時代のせいもあり、決して前向きな受け取られ方をされなかったのが非常に残念だ。

それにしても、なぜどうして、映画界というのは何事も「ステレオタイプ」化しがちなのだろうか。黒人女性=メイドのイメージは今も根強く残っている。

 

根強く残った「差別表現」

映画化の計画を聞いた全米有色人種地位向上協会(NAACP)は、この映画のプロデューサーと監督に人種的な表現(特に「Nigger」などの侮蔑的な表現)の削除を要求するために奮闘したという。

しかしながら、Niggerという表現や、スカーレットの2番目の夫が白人至上主義団体(KKK)に所属していたストーリーなどは使われなかったものの、結果的に一部の表現(黒人を侮蔑する「darkie」や貧しい白人を表現する「white trash」など)は残ったままだった。

黒人奴隷を描いた映画はほかにも山ほどあるが、

この映画はジム・クロウ法という、人種隔離政策のさなかに作られたこと、

そして差別表現が残ったり、黒人俳優のクレジットがなかったりなど、黒人への配慮に著しく欠けている点から、批判の的になってしまったのではないかと思われる。

 

史実を書くべきか、あくまで娯楽を貫くのか

この物語が描かれた時代、実際には多くの黒人が奴隷として人間以下の扱いを受けていたし、当然のように差別用語が飛び交っていた。

ただ、それを、いち娯楽である映画の中で至極忠実に再現する必要は果たしてあるのだろうか?

私の場合、アメリカ史を一通り学んでいるので、ある程度背景事実を把握しており、大衆芸能として、一部改変が加えられていたとしても納得できる。

映画を歴史的教科書としてとらえるのか、

または誰にでも受け入れられる形に作り上げるのか。

それは人それぞれの価値観だろう。

 

ただ、映画の表現で納得できないことがあれば、

見た人の中には(わたしのように)もっと勉強しようと思う人がいるかもしれない。

映画はあくまで、きっかけにすぎない。だから、不快に思う人が少しでも減るように、たとえ史実と異なったとしても多少の改変は必要なのではないかと思う。

 

皆が平等に、映画を楽しめるようになるには

映画界そのものも、俳優の扱われ方、作品の作り方含め

もっと変わっていかなければならないし、

わたしたち鑑賞者も、様々なバックグラウンドがあることを心得ながら、

多角的な映画鑑賞を求められている気がする。

自分が○○だったら…と考えながら映画を見ると、まるで別な人物になったかのような感覚になり、もっともっと映画の中に入り込めるのでおすすめしたい。

(ちなみに、わたしは映画の世界に入り込みすぎて3日くらい帰ってこれない)